僕の手元に大切にしてきた一通のはがきがあります。
41年間僕を支えてくれた葉書です。少し自慢たらしくもあるのですがシェアします。
若い頃、小学校の教師になろうとしていたが、理想の教師像を追及していけば、現行の学校システムとは無理が生じることに気付いてしまいました。でも子供から離れられない。
なぜなら、若い頃の「魂の躓き」を救ってくれたのが子供だったからだ。
なので、体操を教える道を選びました。たまたま体操競技経験があるからですが、、、
魂の躓きとは、若い時にはよくあるやつ。生きる目的の消失です。オリンピックが目標なのにオリンピックがなくなってしまったときの消失感。それと同じです。挫折感がない人もいるのは知っていますが、、、
教育実習のとき、当時の校長先生の指示もあって、授業案を書かずにぶっつけ本番で国語の授業をやりました。そういう意味では、今と違って、腹の大きい、面白い校長先生だった。
教材は「片耳の大鹿」だった。あまりにも大きすぎるテーマです。読んで、はい終わり、ではすまない内容だった。
新出の漢字はさっさと済ませて、君たちはどう思う?と尋ねるのが僕のスタイルだった。書き方や読み方は重視しない。後で校長先生から軽くお叱りを受けたが、、、
ある生徒が、手を挙げて発言してくれた。
僕は子供の発言に優劣をつける立場にはないので勇気を誉め称えた。
クラス担任の先生から聞いた話なのだが、この子はクラス内でまったくのお客さんだったらしい。要するに、手を挙げたことがないのだそうだ。その時の担任の先生はそのことに驚かれた。そりゃ、そうだろう。椋鳩十先生の名作を読んで感動しない子供はいない。僕はそう信じていた。
僕の役目は、この作品の素晴らしさを伝えるだけだ。これをきっかけに、しっかり読書経験を積んで欲しいのだ。そして感動の生まれる根拠について子供と共有したいだけだった。
ある意味、教師としては失格だ。なぜなら、読み書きをしっかり教えるのが教師の仕事だからだ。体操のコーチがトレーニングの基礎を教えるのとまったく同じ。そういうことを校長先生から諭された。僕は正式な教員は無理だなと深く悟った。
以来、体操のコーチになっても、同じ道を歩んでいる
体操のコーチとしても二流レベルの力量しかない。
ただ、子供の心をつかむのは得意かもしれない。
実習が終わる頃、千羽鶴をクラスの生徒たちが秘かに織り込んで、お別れ会の時、「必ず先生になって欲しい」と書かれたメッセージとともに、他の実習生、教員の皆様の前で渡された。
まさか、僕のところに、そんなに人気が集まるとは、他の教員の先生方も実習生も想像できなかったらしい。
僕は、教員免許は無駄にしたが、資格以上に大切なものに気付いている。
それは、子供への「恩返し」の気持ちかもしれない。
僕を救ってくれた子供のそのストレートな愛に、打てば響く素直な感性に救われたのだ。
だから、子供の感性を大人の欺瞞で汚さないようにして欲しい。
瑞々しい感性を大切に育てて欲しい。