運動が得意である必要はない。

松田は、40年以上の体操コーチの経験と、25年のビジネスオーナーの経験がありますが、何を隠そう大学の専攻は文学でした。

先日実家の裏の物置にしまわれた蔵書を処分しようと覗いてみたら、あまりにも多くて中断してしまいました。

それを改めてながめてみると、感慨深くなりすぎて、時間が無駄に過ぎるのです。

いけない、いけない。

何をしたくて昔を覗いてみたのか?

断捨離をしにきたはずだ、笑。

それはさておき、本日のテーマは、「子供の運動再考」です。

学生時代、一旦体操競技というスポーツからはなれて、思考活動(哲学)にはまっていったのですが、少々生き方に不器用さがうまれたものの、人の見方や、物の見方が自分独自のものになったのは間違いありません。文学のおかげですね。

これは、よくもわるくも実際の社会生活におおきく影響するようになりました。

紆余曲折があって、いったんは教師という職業をめざしましたが、再び、体操コーチ(スポーツ関連)という仕事に落ち着くのはまさに偶然以外にはありません。

体操競技時代の恩師が関係してきます。

大阪のある高校体育教師。スポーツ万能(体操、野球、柔道、水泳、等。スキーインストラクターとしても一流)大阪師範学校(現大阪教育大学)

その当時、職業選択の下に流れているたのは、「教える仕事」さらにその「対象が子供」である、という共通項があります。大人相手のビジネスマンではなく対象が「子供」であることでした。

「教育分野」

実に魅力ある分野です。

子供というのは、大人と明確に違うところがあります。しかし、一般には、その境目がどこにあるのかよくわかりません。

そうは言っても、管理人には、明確に見えているものがあります。

大人は経験量がおおいだけに、他人にたいしてサーカスティック(懐疑的)になりがちです。それで、気の置けない友人ができるまで、ありのままの自分を出すことはありません。それまでは必ずバリアーをもうけるので、多少、心の中の探り合いがスタートになります。結構疲れるのです。

子供の場合は、年齢が若ければ若いだけ、感覚がベースになり、匂いとか雰囲気で人物を判断し、有益だと思えばストレートに接近してきます。嫌だと思えば、理屈抜きで拒否してきます。

松田は、このストレートさが心地よいのです。

これに関しては色々エピソードがありますが、いずれ書いてみます。

ですから少々やかましくても、子供の中にいるのが好きなのです。

おそらく、子供に囲まれている松田を、付き添いのお母さん方はよく見られているとおもうのですが、普通の大人社会ではみられない光景をまのあたりにされて、驚かれていることでしょう。

子供であるということは柔軟であり、まさに可能性が満ち溢れています。

それを一方向(体操競技)に誘導していくのではなく、多様性(ダイバーシティ)の方向に向けていくことが大切だと考えています。

だから、専門スポーツ(体操競技)ではなく、器械運動という呼び方をしたりするのは、今やっている運動(エキササイズ)をフロアエキササイズに限定し、他のスポーツにリンクするベーシックとして集中していこうとするスタイルが生まれてきたのです。

「こども運動クラブ」は、運動が得意である必要はありません

むしろ、苦手なお子さんほど、身体を動かす喜びを感じれるようになります。

第一世代生徒来訪

僕の名前を知る二児を連れたあるお母さんが「こども運動クラブ」を見たいと言って地元公共体育館の事務所にあらわれた。

職員の方がこのお客さんを二階のアリーナにいる僕のところまで案内してくれた。

マスク越しに笑顔で、松田先生、私覚えてくれていますか?と。「かおり」です。

一瞬、「かおり?」 

この子の姉の名前は「よしえ」
妹が「かおり」

忘れる訳がない。

姉は、高校まで体操を続けたが、「かおり」は途中で辞めてしまった。

姉「よしえ」は、僕のところを何度か訪問してくれたが、妹は一度もなかった。ずいぶん長くなる。もうほとんど忘れかけていた。

が、そんなことはない。

顔をみた瞬間に、記憶が鮮やかによみがえった。

この子には、忘れられない思い出があるからだ。

それは、また次回に話そう。

とにかく、今日は、連れてきてくれた、お子さん二人だ。二年生と年長さんのこと。

長男君がパルクールを見て、体操に興味を持ったらしい。「カッコいい」と思ったんだろう。

こども運動クラブのホームページを見ていてくれていたようだ。

今住んでいるところから、そんなに遠くないし、近くに有名体操クラブはあるけど、やっぱり松田先生のところに行こう、そう話してくれた。

僕のところで、もう体操競技はできなくなったが、パルクールにつながる運動、身体の使い方なら、伝授できるかもしれない。

まずは、ワンパクな野生の能力を呼び覚まして欲しい。

わざわざ来てくれた、お返しに、かんたんな側転の動きを、伝授した。

大喜びで、トライしていた。

ここ一週間は、あちこちで、はしゃぎまわるだろう。それが、男の子だ。

そういえば、第一世代の「ともこ」「さちえ」「みつる」も子育て世代だ。

こどもには、良い時間を与えてあげて欲しい。すぐに、大きくなってしまうから。

スポーツ選手は筋肉バカなのか?

今回は、スポーツで成功されている方々と東大理Ⅲに合格されるような偏差値の高い方の共通点について考えてみたいとおもいます。

スポーツ選手はときにスポーツ馬鹿と揶揄され、東大生は頭の良い人の代名詞というステレオタイプが存在します。スポーツ選手が筋肉バカだというのはもちろん誹謗ですが、受験制度にスポーツ推薦が存在することを考えると、この揶揄は全くあたっていないわけではないようです。しかしながら、よく勉強する人にとってはどちらにせよ迷惑な偏見でしかありません。

今日はそういうお話ではなく、別の視点から両者を比べてみたいと思います。

結論から言いますと、両者に共通するのは、「挫折を経験したことがない人」ということではないでしょうか?

良い側面、「底抜けに明るい」
悪い側面、これこそ「筋肉バカ」
(笑)もしくは「偏差値バカ」

さて、あなたはどちら?

両者の共通点は、「これまですべて上手くいってきた人」というのが筆者の視点です。この点を少し掘り下げてみたいと思います。

いや、スポーツ選手も挫折はあるでしょ?

そう反論なさるかたはあるでしょう。まあ一般的にはその通りだと思います。

ここに一冊の本があります。松岡修造氏の「挫折を愛する」です。

彼自身が挫折を乗り越えて今があると主張なさる内容です。僕は一旦は挫折したが、諦めなかったんだ。だから簡単に諦めてはいけない。僕の今があるのはあきらめなかったからだ。

実に単純です。(笑)

ざっと目次に目を通すと全編そういう主張であふれています。成功哲学の王道、スポーツ選手が愛してやまないメンタリィティですね。

我慢して(笑)読んで見ました。
途中で嫌になりましたが、一応、彼を知るうえで大切なので読み進めました。この本を読んで勇気をもらったり、元気をもらったりする人はどれくらい存在するのか気になりましたが、少なくとも筆者は疲れました(笑)

かんじんの「挫折」ですが、そこに「挫折」を感じることはできませんでした。

彼がいう「挫折」とは「立ちはだかる壁の前になすすべなくうちひしがれる」。そういう状態を言っているのだと思います。強力なライバルの出現に落ち込んでいることを「挫折」と呼んでいるようです。相手が強烈に強すぎるから、あきらめてテニスをやめてしまいたい。

体操に即して言いますと、技の難度が難しすぎて自分にはとうてい無理だと考えあきらめてしまう心理状態のことをさしているようです。いかにも哲学的な表現を使って、スポーツ選手も悩んでいると言いたいのかもしれません(笑)

さて、これをはたして「挫折」とよぶのふだろうか?

多分、筆者のなかでは、間違いなくクソ本にあたると思います。

ごめんなさい、松岡修造さん(笑) 

あなたの筋肉性は、いとも簡単に「挫折を愛する」と言ってのける精神性によく現れているからです。

断言します。本当に挫折した人は、決して「挫折を愛する」とは言いません。スポーツ選手は、直線的思考をする傾向がありますね(笑)

ここで、断っておきますと、人が必ず挫折しなければならないかというと、決してそうではありませんので、そこは勘違いなさらないで下さい。

こういう本を読んで、挫折しているひとが復活することはできません。近寄る人はいないと思います。亡くなられた神田沙也加さんが絶対に手にしない本です

1、存在の揺らぎ

ここから、筆者の考える「挫折」です。

18歳から22歳にかけて、個人差もありますが、人には「存在の揺らぎ」のようなものが訪れます。みなさんにはありましたか?自覚されていない場合もあるでしょうが、、。

ないほうが幸せです(笑)
ところが、不幸にしてこやつにとらわれると、簡単にはいきませんよ。

人はこの時期(青年期特有)、その得体の知れない「存在の揺らぎ」を何かに置き換える行為にでます。

それが、スポーツや成功願望(医者を目指したり)につながります。恋愛あるいは結婚、政治活動、あるいは宗教になります。一時期、流行った「自分探し」、最近は成功ビジネスなど。オウム事件は、この若者に特有の「存在の揺らぎ」を背景にしていますね。

できれば近寄らないほうがよろしい。でも、もし、それに落ち込んでしまったら、唯一の救いは、徹底的に哲学(deep thinking)をすることです。それしかありません。

哲学? えっ、そんなの難しくて、無理。

わかります。いまさらそんな難しいことにチャレンジできません。もっとシンプルな方法を教えて下さい。

一つあります。恋愛です。これならできるでしょ。若者はてきれば、変な宗教や、自分探しではなく、積極的に恋愛をしたほうが良いと思います。

ただ、筆者には今の若者がそれほど恋愛しているとは思えないのです。もしかしたら、発情期のオスメスの猫でしかないのかもしれません。人間の恋愛は猫の発情期とは違います。次元が違うのです。ですから、それをきっかけに偉大な哲学者に遭遇することができるかもしれないからです。えっ、結局哲学ですか?はい、そうです。でも今度は真剣になるでしょう。でもご注意下さい。抜け出せなくなりますよ。

若者は相手を求めすぎます。そして失敗します。このとき、この世の終わりとでも言わんばかりに失望してしまいます。まるで世界の終わりのように感じてしまうわけです。これが「存在の揺らぎ」です。

どうせなら 存在が揺らぐほどの恋愛を経験すればよい
人を好きになって幾度か失敗すればよい。お互いわがままな存在ですから、ぶつかり合います。

結婚する前に、少々こういう体験をしたほうがはるかに良いのですが、近年は、簡単に結婚してしまう場合があるようです。失敗しないで上手く結婚したとして、たいした失敗経験がないと、たんなるオスメスのつながりになりかねません。そしてその結婚が、たんなるオスメスの同居となると、ことが済んだあとは、破綻が生まれるだけです。最近話題のどなたかのように。(笑)

その方が有名な人物であれば、マスコミに格好のスキャンダルを提供するようになります。離婚が増える大きな理由です。迷惑なのは、子供です

神田沙也加さんのように、恋愛の失敗で存在が揺らいでしまったら、哲学しかありません。彼女は、命を絶ってしまいましたが、、、そこから初めて真の思考力が生まれるはずだったのです。もし、このとき、適切なサポート(哲学)があれば、個人の尊厳を深く考えるヒントやきっかけになったのです、、、本当に残念です。ご冥福をお祈りいたします。

さて、スポーツ選手のメンタリティーに話を戻しましょう。

スポーツ選手の一部の方に底の浅さ(筋肉バカだと言われる理由の一つ)があらわれるのは、そもそも挫折しょうがないマインドの持ち主だからです。ですから、挫折から立ち上がる上で必要な、根本的な「生きるための哲学」の経験が不足しているのです。

だから、一方的な成功哲学しか語りようがないのです。悩める人がこういう人に生きづらさの相談などはできませんよね。本当に挫折しているひとが、松岡修造大先生に相談する人がいるでしょうか?

2 アスリートや、政治家および官僚に不足する共感力

本日皆さんにお伝えしたい内容を考えたきっかけは、昨年(2021年)の東京五輪の国を挙げての騒ぎからでした。

五輪選手は国民に支持されて大会を盛り上げていきたいはずなのに、なぜか批判の矛先すらむけられる険悪なムードができあがってしまう時期がありました。たぶん、この雰囲気に「とまどい」ながら、明確に反発した人もいるでしょう。アスリートは「命がけで」やっているんだ。筆者の良く知るコーチが、あるところで、僕にそう伝えたことがあります。

言わんとすることは、わかります

政府が五輪を強行する理由を明らかにせず、大会の開催意義すら見失い、アスリートを政治利用する構図が見え始めたころ、世論は完全に五輪反対に傾いていきました。

こうした騒ぎのなかで、五輪に反対する多くの国民に、肝心のアスリートから誰一人感情移入できた人がいなかったことです。もとより賛成する国民もいるにはいましたが、世論は圧倒的に反対に傾いていました。

反対する人に感情移入すれば、五輪選手としての自分のアイデンティティーの否定につながりますから、その敷居を越える人はでませんでした。

筆者が記憶する限り、陸上女子1万メートル代表の新谷仁美さんただ一人だけでした。

そして、今回のテーマの結論になります。

考える力や共感力は、偏差値の高さや運動能力だけでは計れない

3 終わりに

僕の個人的な印象では、
山口香さん、有森裕子さんは、少し違うように見えます。
為末大さんは「走る哲学者」と言われるくらいですが、まだよくわかりません。

JOCの山下泰裕先生や、TOCOGの橋本聖子先生は、僕のなかでは、終わっています。言わばお寺の住職(政治家)にこき使われる小僧さんのイメージです。橋本先生は政治家ですが、、柔道関係、スケート関係のみなさん、ごめんなさいね。気を悪くなさらないで下さい。個人的な感想ですから。

彼、彼女に一休さんほどの知性と反骨があれば、と思うのですが、、。

以下、山下先生に代表していただきます。

彼はオリンピックボイコット問題で泣き崩れ、悲劇のヒーローを演じましたが、筆者の見るところ、「挫折」はしていません。それが証拠に4年後、今度は金メダルをとってまた泣きました。マスコミが大好きな感動ドラマです。それを見て感動した人は沢山いるでしょう。
それは、個人の体験ですから、自由の範囲です。

ですが、彼に「存在の揺らぎ」のような明確な挫折は感じることはできません。あくまで優等生の範囲です。松岡修造氏と同じテイストを感じます。

ですから、今や立派なJOC会長です。看板に傷などない圧倒的な優等生です。まるで偏差値の高さを看板にする優等生と同じですね。

これが、本日どうしても言いたいことの一つです。

まあ、世の中にそういう人がいても良いのですが、、、。

あまりにも、沢山いらっしゃるようですので疲れるのです。

思考力を地頭だと考え、頭の回転の良い人を想像される人は多いようですが、違います。早口でまくしたてる人は、決して考えてはおりません。よく見ておいてください。

その良い例が、Youtuberで人気があったDAIGOという方ですかね。

長くなりました。
一度は立ち止まって、「存在の揺らぎ」について考えて見てください。

2022/01/25

平凡に生きることの意味

本日は、僕の中で記憶に残る子供さん(生徒)のことについて、お話をしておきます。 

子供の骨盤の傾斜をテーマにするつもりでしたが、後日に譲り、本日は「平凡に生きることの意味」について考えてみます。

競技スポーツの一コーチとしては、最も成功した子供について語るのが普通ではあるのですが、ご勘弁下さい。

コロナ禍で、クラブ閉鎖した表向きの理由とは別に、僕の中で、決定的な変化を迫るストーリーがありました。まだ誰にも話していません。

本日紹介するこのお子さんは、本格的に競技に入る前に体操を辞めていきました。

https://www.facebook.com/groups/605746099578995/permalink/2005337766286481/

当時、先行するチームと合流していける力がないことは明らかだったのですが、僕の意識のなかではそんなことはどうでも良いことだったのです。

僕のスタイルで選手育成アプローチを行いました。

ある意味で成功しある意味で失敗しました。

この頃からでしょうか、競技否定の気持ちがどことなく芽生えはじめていたようです。

競い合いはどこまでいっても終わりのない消耗戦のようだ

これが当時の僕の気持ち(疑問)でした。

競技の道は、確かにその時々で「感動」や「成長」はあります。だが、人はその目に見えない「価値」のために自分を追いやる必要はないのではないか?

うまく言えませんが、難しく言えば、これが今の僕の考えです。

「人は、お互い競い会わず、まったり生きていく道もある。」

「平凡」という言葉が、心の健康のためには必要な価値であることを、つくづく思い知らされた出来事が、僕の前にあらわれました。

この子は、チームに入る前に辞めて行きました。

本人の気持ちを代弁すると、別に心が折れたわけではない、ある出来事ががまんできなかっただけなのです。

競技チームメンバーからの「ちょっとした嫌がらせ」が原因でした。

たいしたことはない単なるからかいレベル」だが、彼女には小さなことではなかったのです。

もし僕のクラブがありがちな体操クラブではなく、今のようにありふれた「運動クラブ」だったら、と反省したのです。

先行するチームは、僕の部下に任せてあったので、安心して自分が理想とする指導ができる。そう確信して楽しみながら指導しました。

僕が指導するグループは、グループと言ってもわずか六人でしたが、いわゆる「競い合い」がないのです。 

それだけ「まったり」「平凡」である。

ところが、悪いことに、僕はクラブの代表である。

その代表が、別のグループを「まったり」指導している。

「頑張っている」と自負する子供たちにとっては、「まったり」はありえない文化なのだ。

そこに、大きな失敗の種が芽生えるのです。

まるで、今の学校教育システムと同じように。

スポーツ化は高校生からでよい

小学生までは基本の運動をしっかりマスターして、中学生の三年間は、すこし競技にシフトしてもよいけれど、それも、最小限にとどめておくべきだと思います。

お子さんが小さいうちから競技の道を選ぶ人もおられます。それを否定するつもりはありません。ですが「こども運動クラブ」にご関心をいただく方には、そんな方はおられないと思います。

小さいお子様をお持ちのお母様には、「スポーツではなく器械運動を選ぶべきだ」というメッセージを「こども運動クラブ」としては、あえて送りたいと思います。

スポーツと運動とは違うのか?

スポーツというのは、本来「遊び」の要素があったものが、人間の持つ競い合う気持ちをうまく利用して、近代になって支配勢力がうまく利用して発展してきたものです。

何を言わんとしているのか、わかりにくいかもしれませんね?でも、もしかすると競技スポーツをやりすぎて疲弊してしまったお子さんをお持ちのお母様には、ピンっとくるメッセージかもしれません。

僕が、強調して伝えておきたいのは、器械運動は、身体も心も健康でハツラツとした人生を送ることが第一の目的であって、技術を競いあうスポーツは、あくまでも第二の派生文化だということです。

スポーツは人間の生活を豊かにするためにあり、生活を歪めるためにはありません。

子どもに本当に必要なものは、身体をコントロールする能力と規則正しい食事と生活の改善であり、ことさら、他人に勝つ能力ではないということです。

ここを間違わないようにして下さい。

大切なことなので強調しますが、スポーツが価値があるのは、勝ち負けを学ぶことから人生の深さを知ることができたときだけです。とくに、負けることから、深く学ぶことができるからです。

そういう意味では、適切な年齢に達しておかなくてはいけない!と考えています。

それは、昔で言うなら、「中学生に入る頃」ということです。このあたりは、個人差がありますので、一概には言えませんが、目安として考えて下さい。

ですから、12歳以下の子どもさんは、まずは、正しい器械運動から学んでほしいのです。お子様が競技(スポーツ)に興味を持つか持たないかは、あなたが決めるのではなく、その後、自然に決まるものです。

ですから、12歳以下の子どもさんは、まずは、正しい器械運動から学んでほしいのです。お子様が競技(スポーツ)に興味を持つか持たないかは、あなた(保護者)が決めるのではなく、その後、自然に決まるものです。

以前のブログ内容を書き換えました

子供に器械運動を教えていて気付いたこと

現代の子どもたちは、かなり運動感覚が欠如しているのではないか?ということです。

これの主な原因は運動不足です。いくら強調しても強調しすぎることはありません。

それとは別の視点から気付いたことを言えば、

昭和時代と平成の違いは座り方の激変があると思います。

それは、、、、、正座をしなくなったこと。

学校体育のシーンでは、体育すわり(おやますわり、三角すわりとも言う)が主流ですが、この座り方は、問題が多いと日々感じています。

現代のご家庭では、西洋様式のリビング・ダイニングが普及してしまったので、通常、椅子の上での生活になると思います。正座は、駆逐されたのではないでしょうか?

運動感覚の欠如と正座の消滅。

なにか関連があるのでしょうか?

大いにあると見ています。

僕の子供時代は、昭和30年代です。「三丁目の写真館」で描かれている暮らしです。ちゃぶ台やみかん箱の上で勉強というスタイルが庶民の主流でした。

とにかく椅子や机がなかった。

ご飯を食べたり、勉強しようとしたら、畳の上で寝転んでするか、適当な台を見つけて、正座しながらするか、です。

この正座、やってみるとよくわかるのですが、日本人が大切にしてきた文化の一つの凄さが、しみじみわかります。

足が痛いなんてすぐに根をあげないで、ぜひトライしてみてくださいね。

まず呼吸。深い呼吸が可能。そしてリラックス効果。背骨骨盤が立つ。

僕が注目するのはココ。骨盤が立つ!!!

現代の子供の多くは、骨盤が外側に倒れている。

これがそうとう問題である。

次回の投稿で書きます。