運動が得意な場合もある

運動が得意である必要はない」と前回の投稿で申しましたが、実は得意であっても、何をしてよいのやら、見つからない場合が多いものです。

とてつもない可能性を秘めていながら、よい指導者に恵まれない場合、その才能は眠ったままです。

器械運動に限定する必要はありません。

たまたまめぐり合わせた指導者が、体操専門である場合、運命的にその道に進む場合がほとんどですし、もしかしたら、今、流行りの駅伝のほうが向いている場合もあるかもしれません。

入り口が緩いほうが良いというのは松田の持論です。最初から専門性が高いと余計な競争心がお子さんの道を限定してしまいます。何が向いているかなんて、だれにもわかるものではありませんから。

先週および昨日と、明らかに運動の得意なお子さんが体験練習をしました。

なんと、もう「てんかい」(倒立前方転回)ができてしまったのです。本人は大喜びで、今度は「ばくてん」(後転跳び)が、視野に入ってしまったようです。

何かができるということは、喜ばしいのですが、それは、ある程度の下地があったからだということに気が付きません。

柔軟性もあり筋力もあれば、そうなります。しかし、まだまだ基本練習を積んでいるわけではありません。本人は気づくわけもありません。

松田は、こういう場合、何も言いません。にこにこしているだけです。

しかしそれとなく基本運動をすることへ誘導していきます。そして、さらに挑戦へといざないます。おそらく短期で「ばくてん」ができるようになりそうです。あくまで初歩的なものですが、できるのはたやすいことです。

ただもし、本格的な体操競技となると、ベースメントの育成に2000時間はかけたいので、こども運動クラブの領域外となります。

こうなると、「体操クラブ」の出番ですが、松田は、これまでの経験から、あまりおススメするつもりはありません。

あくまで、達成感と運動の喜びを、「こども運動クラブ」で味わってほしいのです。「競技」は、その気になればいつでもできます。それまで、楽しさを失わないでほしいものです。

運動が得意である必要はない。

松田は、40年以上の体操コーチの経験と、25年のビジネスオーナーの経験がありますが、大学での専攻は英米文学でした。

先日実家の裏の物置にしまわれた蔵書を処分しようと覗いてみたら、あまりにも多くて中断してしまいました。

それを改めてながめてみると、感慨深くなりすぎて、時間が無駄に過ぎるのです。

いけない、いけない。

何をしたくて昔を覗いてみたのか?

断捨離をしにきたはずだ、笑。

それはさておき、本日のテーマは、「子供の運動再考」です。

学生時代、一旦体操競技というスポーツからはなれて、思考活動(哲学)にはまっていったのですが、少々生き方に不器用さがうまれたものの、人の見方や、物の見方が自分独自のものになったのは間違いありません。文学のおかげですね。

これは、よくもわるくも実際の社会生活におおきく影響するようになりました。

紆余曲折があって、いったんは教師という職業をめざしましたが、再び、体操コーチ(スポーツ関連)という仕事に落ち着くのはまさに偶然以外にはありません。

体操競技時代の恩師が関係してきます。

大阪のある高校体育教師。スポーツ万能(体操、野球、柔道、水泳、等。スキーインストラクターとしても一流)大阪師範学校(現大阪教育大学)

その当時、職業選択の下に流れているたのは、「教える仕事」さらにその「対象が子供」である、という共通項があります。大人相手のビジネスマンではなく対象が「子供」であることでした。

教育分野

実に魅力ある分野です。

子供というのは、大人と明確に違うところがあります。しかし、一般には、その境目がどこにあるのかよくわかりません。

そうは言っても、管理人には、明確に見えているものがあります。

大人は経験量がおおいだけに、他人にたいしてサーカスティック(懐疑的)になりがちです。それで、気の置けない友人ができるまで、ありのままの自分を出すことはありません。それまでは必ずバリアーをもうけるので、多少、心の中の探り合いがスタートになります。結構疲れるのです。

子供の場合は、年齢が若ければ若いだけ、感覚がベースになり、匂いとか雰囲気で人物を判断し、有益だと思えばストレートに接近してきます。嫌だと思えば、理屈抜きで拒否してきます。

松田は、このストレートさが心地よいのです。

これに関しては色々エピソードがありますが、いずれ書いてみます。

ですから少々やかましくても、子供の中にいるのが好きなのです。

おそらく、子供に囲まれている松田を、付き添いのお母さん方はよく見られているとおもうのですが、普通の大人社会ではみられない光景をまのあたりにされて、驚かれていることでしょう。

子供であるということは柔軟であり、まさに可能性が満ち溢れています。

それを一方向(体操競技)に誘導していくのではなく、多様性(ダイバーシティ)の方向に向けていくことが大切だと考えています。

だから、専門スポーツ(体操競技)ではなく、器械運動という呼び方をしたりするのは、今やっている運動(エキササイズ)をフロアエキササイズに限定し、他のスポーツにリンクするベーシックとして集中していこうとするスタイルが生まれてきたのです。

「こども運動クラブ」は、運動が得意である必要はありません

むしろ、苦手なお子さんほど、身体を動かす喜びを感じれるようになります。

第一世代生徒来訪

僕の名前を知る二児を連れたあるお母さんが「こども運動クラブ」を見たいと言って地元公共体育館の事務所にあらわれた。

職員の方がこのお客さんを二階のアリーナにいる僕のところまで案内してくれた。

マスク越しに笑顔で、松田先生、私覚えてくれていますか?と。「かおり」です。

一瞬、「かおり?」 

この子の姉の名前は「よしえ」
妹が「かおり」

忘れる訳がない。

姉は、高校まで体操を続けたが、「かおり」は途中で辞めてしまった。

姉「よしえ」は、僕のところを何度か訪問してくれたが、妹は一度もなかった。ずいぶん長くなる。もうほとんど忘れかけていた。

が、そんなことはない。

顔をみた瞬間に、記憶が鮮やかによみがえった。

この子には、忘れられない思い出があるからだ。

それは、また次回に話そう。

とにかく、今日は、連れてきてくれた、お子さん二人だ。二年生と年長さんのこと。

長男君がパルクールを見て、体操に興味を持ったらしい。「カッコいい」と思ったんだろう。

こども運動クラブのホームページを見ていてくれていたようだ。

今住んでいるところから、そんなに遠くないし、近くに有名体操クラブはあるけど、やっぱり松田先生のところに行こう、そう話してくれた。

僕のところで、もう体操競技はできなくなったが、パルクールにつながる運動、身体の使い方なら、伝授できるかもしれない。

まずは、ワンパクな野生の能力を呼び覚まして欲しい。

わざわざ来てくれた、お返しに、かんたんな側転の動きを、伝授した。

大喜びで、トライしていた。

ここ一週間は、あちこちで、はしゃぎまわるだろう。それが、男の子だ。

そういえば、第一世代の「ともこ」「さちえ」「みつる」も子育て世代だ。

こどもには、良い時間を与えてあげて欲しい。すぐに、大きくなってしまうから。

こどもに逆上がりを指導するうえで気を付けるべきこと

お子さんに、逆上がりを教える機会がある方へ、気をつけておいて頂きたいことを2つ申し上げておきます。(体操クラブの方は、クラブ独自の指導方法がありますから、そちらに従って下さい。ご自分の指導に生かせていただければ幸いです)

今回は、それ以外の大人のかた、お父様、お母様、あるいは教育現場の先生、保育士さんへのアドバイスでございます。二つあります。

1.完成を急がないことです。

2.少し高めの鉄棒でやることです。(あとで詳しく述べます)

逆上がりは、子供さんが興味をもたれたら、そこで初めてやるぐらいの気持ちでよいのですが、日本人は努力主義が好きですので、なんらかのきっかけで無理にやらせたり、子供からすれば、やらされる機会(学校体育)は出てきます。はっきり言ってできる必要はないのですが、子供さんからすれば本心はできたほうが良いわけですから、そこはぜひ無理なく小さな成功体験をさせて上げて下さい。

さて、お子さんに逆上がりの指導が必要になるということは、お子さんが逆上がりをやってみようとしたら、うまくいかなかった、という場合ですよね。お子さんが逆上がりできない理由は、およそ2つあります。

1.回転感覚がない。

2.体幹筋力が育っていない

そもそも運動が苦手だからですが、そういうお子さんは進んで鉄棒に触ろうとはしませんよね。なんとか鉄棒の前に来てくれればよいのですが、無理にやるとかえってへこみます。絶対やめて下さい。もし、少しでも興味をもっようだったらしめたものです。なかば成功したも同然です。ここはあなた(大人、コーチ、先生)の腕の見せ所となります。

やることはシンプル

今回は、体幹力を改善するための運動を紹介することになります。回転感覚ですが、ベストはマット運動ですので、ここではおいておきましょう。別の機会に。

冒頭に述べましたように、完成形を練習しないのは、そういう意味を含んでいるわけです。逆上がりを教えるときに、指導者(大人、教師、コーチ)がいきなり完成形を子供の前で見せるときがあります。逆上がりってこうするんだよ!というつもりで。まあ、よいのですが、少し待ってください。できるあなたの気持ちはわかります。あなたは自信たっぷりにやるでしょ?それが良い方向にいくとは限らないのです。わかりますか?

あなたは、大切なポイントを指摘し、こうやれば、うまくいく!こんなふうになるとできないよ!って指導されますよね?

はっきり言います。そんなの見せられても、できない子は、困るわけです。優等生のあなたを見ても、どうしようもありません。筆者からすると、できない子の気持ちがわかっていない!となります。やってませんか?松岡修造さん的なノリで(ごめんなさい、笑)

今できないことも、頑張ったらできるようにるんだ。がんばれ!って(笑)

あなたの成功体験をいくら強調しても、できないものはできません。

少し横にそれました。戻しましょう。筆者の幼児体育、児童体育の実践経験から言いますと、鉄棒は低すぎるのはダメだということです。

適切な高さとは?

できれば、子供の顔の正面あたり、理想は頭の少し上、腕が自然に曲がる程度の高さの鉄棒を選ぶことです。足は着いている必要はあります。幼児の場合は、あまり高すぎると恐怖感が生まれますので、胸の高さが良いでしょう。これもその子によります。足が離れたときに宙ぶらりんになる高さが良いです。

やってはいけない高さとは? 

もし、腰のあたりの高さの鉄棒を選ぶと失敗を誘導することが多くなります理由は、錯覚が生まれるからです。そうです。皆さんがよく失敗例としてあげていらっしゃるあの現象です。筆者に言わせると、失敗を誘導しているとしか見えません。低い鉄棒では、懸垂感覚が生まれないからです。腕をまげてやるんだよ、といってもそれは無理です。この失敗現象を起こさないようにするために、自然に引付けがおこるような高めの鉄棒を選ぶわけです。鉄棒運動をよくご存じのあなたなら、おわかりですよね。体操クラブは、段違い平行棒(低バー)がありますので、高学年でも対応できます。

「高い」⇨「できない」でしょうか?

「高さ」は、一見、勇気をくじきそうですが、そうではありません。高すぎるのがいけないのであって、適当な高さは新たなチャレンジ精神をよび子供はかえって喜びますよ。試してみてください。そこはご心配なく。元々、完成形をやろうとしていませんので「できない」は起こりようがないのです。では、そろそろ筆者がオススメするシンプルな運動を紹介いたします。

寒いとは言え、もうすぐ立春ですね。

皆さん、いかがお過ごしですか?

鉄棒で遊ぶ子供もいないし、さみしいので少し運動してみました。

高齢者にはけっこうきつい運動です

逆上がりは、スイングが大切ですね。

宙返りするわけにはいかないので🤗

逆上がりできないお子さんの参考にになればと思い、生存確認のために、投稿しておきます。😁

Matsuda Kazuhiroさんの投稿 2022年1月30日日曜日

スポーツ選手は筋肉バカなのか?

今回は、スポーツで成功されている方々と東大理Ⅲに合格されるような偏差値の高い方の共通点について考えてみたいとおもいます。

スポーツ選手はときにスポーツ馬鹿と揶揄され、東大生は頭の良い人の代名詞というステレオタイプが存在します。スポーツ選手が筋肉バカだというのはもちろん誹謗ですが、受験制度にスポーツ推薦が存在することを考えると、この揶揄は全くあたっていないわけではないようです。しかしながら、よく勉強する人にとってはどちらにせよ迷惑な偏見でしかありません。

今日はそういうお話ではなく、別の視点から両者を比べてみたいと思います。

結論から言いますと、両者に共通するのは、「挫折を経験したことがない人」ということではないでしょうか?

良い側面、「底抜けに明るい」
悪い側面、これこそ「筋肉バカ」
(笑)もしくは「偏差値バカ」

さて、あなたはどちら?

両者の共通点は、「これまですべて上手くいってきた人」というのが筆者の視点です。この点を少し掘り下げてみたいと思います。

いや、スポーツ選手も挫折はあるでしょ?

そう反論なさるかたはあるでしょう。まあ一般的にはその通りだと思います。

ここに一冊の本があります。松岡修造氏の「挫折を愛する」です。

彼自身が挫折を乗り越えて今があると主張なさる内容です。僕は一旦は挫折したが、諦めなかったんだ。だから簡単に諦めてはいけない。僕の今があるのはあきらめなかったからだ。

実に単純です。(笑)

ざっと目次に目を通すと全編そういう主張であふれています。成功哲学の王道、スポーツ選手が愛してやまないメンタリィティですね。

我慢して(笑)読んで見ました。
途中で嫌になりましたが、一応、彼を知るうえで大切なので読み進めました。この本を読んで勇気をもらったり、元気をもらったりする人はどれくらい存在するのか気になりましたが、少なくとも筆者は疲れました(笑)

かんじんの「挫折」ですが、そこに「挫折」を感じることはできませんでした。

彼がいう「挫折」とは「立ちはだかる壁の前になすすべなくうちひしがれる」。そういう状態を言っているのだと思います。強力なライバルの出現に落ち込んでいることを「挫折」と呼んでいるようです。相手が強烈に強すぎるから、あきらめてテニスをやめてしまいたい。

体操に即して言いますと、技の難度が難しすぎて自分にはとうてい無理だと考えあきらめてしまう心理状態のことをさしているようです。いかにも哲学的な表現を使って、スポーツ選手も悩んでいると言いたいのかもしれません(笑)

さて、これをはたして「挫折」とよぶのふだろうか?

多分、筆者のなかでは、間違いなくクソ本にあたると思います。

ごめんなさい、松岡修造さん(笑) 

あなたの筋肉性は、いとも簡単に「挫折を愛する」と言ってのける精神性によく現れているからです。

断言します。本当に挫折した人は、決して「挫折を愛する」とは言いません。スポーツ選手は、直線的思考をする傾向がありますね(笑)

ここで、断っておきますと、人が必ず挫折しなければならないかというと、決してそうではありませんので、そこは勘違いなさらないで下さい。

こういう本を読んで、挫折しているひとが復活することはできません。近寄る人はいないと思います。亡くなられた神田沙也加さんが絶対に手にしない本です

1、存在の揺らぎ

ここから、筆者の考える「挫折」です。

18歳から22歳にかけて、個人差もありますが、人には「存在の揺らぎ」のようなものが訪れます。みなさんにはありましたか?自覚されていない場合もあるでしょうが、、。

ないほうが幸せです(笑)
ところが、不幸にしてこやつにとらわれると、簡単にはいきませんよ。

人はこの時期(青年期特有)、その得体の知れない「存在の揺らぎ」を何かに置き換える行為にでます。

それが、スポーツや成功願望(医者を目指したり)につながります。恋愛あるいは結婚、政治活動、あるいは宗教になります。一時期、流行った「自分探し」、最近は成功ビジネスなど。オウム事件は、この若者に特有の「存在の揺らぎ」を背景にしていますね。

できれば近寄らないほうがよろしい。でも、もし、それに落ち込んでしまったら、唯一の救いは、徹底的に哲学(deep thinking)をすることです。それしかありません。

哲学? えっ、そんなの難しくて、無理。

わかります。いまさらそんな難しいことにチャレンジできません。もっとシンプルな方法を教えて下さい。

一つあります。恋愛です。これならできるでしょ。若者はてきれば、変な宗教や、自分探しではなく、積極的に恋愛をしたほうが良いと思います。

ただ、筆者には今の若者がそれほど恋愛しているとは思えないのです。もしかしたら、発情期のオスメスの猫でしかないのかもしれません。人間の恋愛は猫の発情期とは違います。次元が違うのです。ですから、それをきっかけに偉大な哲学者に遭遇することができるかもしれないからです。えっ、結局哲学ですか?はい、そうです。でも今度は真剣になるでしょう。でもご注意下さい。抜け出せなくなりますよ。

若者は相手を求めすぎます。そして失敗します。このとき、この世の終わりとでも言わんばかりに失望してしまいます。まるで世界の終わりのように感じてしまうわけです。これが「存在の揺らぎ」です。

どうせなら 存在が揺らぐほどの恋愛を経験すればよい
人を好きになって幾度か失敗すればよい。お互いわがままな存在ですから、ぶつかり合います。

結婚する前に、少々こういう体験をしたほうがはるかに良いのですが、近年は、簡単に結婚してしまう場合があるようです。失敗しないで上手く結婚したとして、たいした失敗経験がないと、たんなるオスメスのつながりになりかねません。そしてその結婚が、たんなるオスメスの同居となると、ことが済んだあとは、破綻が生まれるだけです。最近話題のどなたかのように。(笑)

その方が有名な人物であれば、マスコミに格好のスキャンダルを提供するようになります。離婚が増える大きな理由です。迷惑なのは、子供です

神田沙也加さんのように、恋愛の失敗で存在が揺らいでしまったら、哲学しかありません。彼女は、命を絶ってしまいましたが、、、そこから初めて真の思考力が生まれるはずだったのです。もし、このとき、適切なサポート(哲学)があれば、個人の尊厳を深く考えるヒントやきっかけになったのです、、、本当に残念です。ご冥福をお祈りいたします。

さて、スポーツ選手のメンタリティーに話を戻しましょう。

スポーツ選手の一部の方に底の浅さ(筋肉バカだと言われる理由の一つ)があらわれるのは、そもそも挫折しょうがないマインドの持ち主だからです。ですから、挫折から立ち上がる上で必要な、根本的な「生きるための哲学」の経験が不足しているのです。

だから、一方的な成功哲学しか語りようがないのです。悩める人がこういう人に生きづらさの相談などはできませんよね。本当に挫折しているひとが、松岡修造大先生に相談する人がいるでしょうか?

2 アスリートや、政治家および官僚に不足する共感力

本日皆さんにお伝えしたい内容を考えたきっかけは、昨年(2021年)の東京五輪の国を挙げての騒ぎからでした。

五輪選手は国民に支持されて大会を盛り上げていきたいはずなのに、なぜか批判の矛先すらむけられる険悪なムードができあがってしまう時期がありました。たぶん、この雰囲気に「とまどい」ながら、明確に反発した人もいるでしょう。アスリートは「命がけで」やっているんだ。筆者の良く知るコーチが、あるところで、僕にそう伝えたことがあります。

言わんとすることは、わかります

政府が五輪を強行する理由を明らかにせず、大会の開催意義すら見失い、アスリートを政治利用する構図が見え始めたころ、世論は完全に五輪反対に傾いていきました。

こうした騒ぎのなかで、五輪に反対する多くの国民に、肝心のアスリートから誰一人感情移入できた人がいなかったことです。もとより賛成する国民もいるにはいましたが、世論は圧倒的に反対に傾いていました。

反対する人に感情移入すれば、五輪選手としての自分のアイデンティティーの否定につながりますから、その敷居を越える人はでませんでした。

筆者が記憶する限り、陸上女子1万メートル代表の新谷仁美さんただ一人だけでした。

そして、今回のテーマの結論になります。

考える力や共感力は、偏差値の高さや運動能力だけでは計れない

3 終わりに

僕の個人的な印象では、
山口香さん、有森裕子さんは、少し違うように見えます。
為末大さんは「走る哲学者」と言われるくらいですが、まだよくわかりません。

JOCの山下泰裕先生や、TOCOGの橋本聖子先生は、僕のなかでは、終わっています。言わばお寺の住職(政治家)にこき使われる小僧さんのイメージです。橋本先生は政治家ですが、、柔道関係、スケート関係のみなさん、ごめんなさいね。気を悪くなさらないで下さい。個人的な感想ですから。

彼、彼女に一休さんほどの知性と反骨があれば、と思うのですが、、。

以下、山下先生に代表していただきます。

彼はオリンピックボイコット問題で泣き崩れ、悲劇のヒーローを演じましたが、筆者の見るところ、「挫折」はしていません。それが証拠に4年後、今度は金メダルをとってまた泣きました。マスコミが大好きな感動ドラマです。それを見て感動した人は沢山いるでしょう。
それは、個人の体験ですから、自由の範囲です。

ですが、彼に「存在の揺らぎ」のような明確な挫折は感じることはできません。あくまで優等生の範囲です。松岡修造氏と同じテイストを感じます。

ですから、今や立派なJOC会長です。看板に傷などない圧倒的な優等生です。まるで偏差値の高さを看板にする優等生と同じですね。

これが、本日どうしても言いたいことの一つです。

まあ、世の中にそういう人がいても良いのですが、、、。

あまりにも、沢山いらっしゃるようですので疲れるのです。

思考力を地頭だと考え、頭の回転の良い人を想像される人は多いようですが、違います。早口でまくしたてる人は、決して考えてはおりません。よく見ておいてください。

その良い例が、Youtuberで人気があったDAIGOという方ですかね。

長くなりました。
一度は立ち止まって、「存在の揺らぎ」について考えて見てください。

2022/01/25

神田沙也加さんを悼む

努力主義の陰で人は苦しんでいる

2022年がスタートしました。皆様、あけましておめでとうございます。

年末年始は駅伝が恒例の国民行事となった感がありますが、なにやら壮大な国民イベントになっていて走ることが億劫な僕にとっては、いったいあれの何が面白いのか?よくわからないまま漠然とながめております。区間ごとの激走をみて沿道の方々の声援は熱をおび、報道アナウンサーの過度な実況にやや批判的なコメントをする僕に、義母は笑って反応を返してくれます。80歳を超える義母は駅伝ファン。

若者の激走が先の短い老人に生きる元気を与えてくれるならそれは素晴らしいことだと、大いに納得もし、区間を走り切りゴールに倒れこむようにしてフィニッシュするのはだれしも感情を揺さぶられるものだと、そこは同じように同意はしています。もし僕の教え子のひとりがこの駅伝を走るのなら、間違いなく他の方と同じように必死に応援はするだろうと思います。

考えたいのは、その先です。

怠けている子供より勤勉な子供を称賛するのは当たり前じゃないか!そんな声が返ってくるような気がします。でも、僕は遊んでいる子供が好きなんです。

昨年のオリンピック東京大会で一躍注目をあびたスケードボードをみなさんは覚えておられますか?年少の女の子が金メダルを獲得しましたね。古い伝統的な努力主義の結実がオリンピックだとしたら、そのなかであの競技は何か異次元の花を咲かせたと思いませんか?

昨年秋の日差しの良い日、散歩がてらにとある大型公園に行きました。目的はスケードボードの練習風景を見に行くためです。その公園では、なんと公費でしっかりした練習設備が作られているのです。そこで展開されている練習風景は、僕が一番よく知る体操競技の練習風景とは異質のものでした。まず第一の違いは、指導者と思しき人が誰もいないこと。それぞれのレベルに合わせて、それぞれの滑りにトライしています。これが実に見ていて楽しい。

スケードボードで往復して何が面白いのか? 

しかしわかります。円錐形の深々とした溝を滑り降りて帰ってくるこの単純な動きに、脳内は喜びでみたされているはずだ。

何も目的としない。ただ滑るだけ。ここに価値がある努力はそのことが面白いから自然について回るものであって、他人が強制したり、称賛するものではない。「楽しんでやっていたらいつのまにかそうなりました」が一番である。よそから見ると、「たいへんですね」も、本人からすれば楽しんでいるだけである。これを努力主義とはいわない。彼らは努力しているようには見えない。ただ楽しんでいいるだけです。

さて、本日の本題です。

2021年12月の事件

  1. 神田沙也加さんの転落死 (後に遺書が見つかったことで、自殺と思われる)
  2. 大阪のビル火災の事件 (容疑者は亡くなったようです。この事件の真相がわからないまま、人々の記憶から時間とともに消え去っていきます)

まずは、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

大阪のビル火災事件はあまりにも痛ましく、言葉が見つからないのですが、神田沙也加さんの転落死も各方面に大きな衝撃を与えております。2つの事件には、共通のキーワードがあり、以前から気になっていることがあります。それは両者ともに心療内科に通院されていたということです。

一人は有名芸能人の転落死、他の方は他人を巻き込んだ大量殺人事件。二人を同じ地平で論じるな、というお叱りは無視して、この問題、心療内科の増加、および精神医の問題について少し考えてみます。

沙也加さんは、報道によると医師により処方された薬に対して、この日決められた量を越える服用があったと報じられております。これがどういう結果をもたらすか、想像してみる必要があるのではないでしょうか?

芸能界のトップを走る方のメンタルの危機を勝手に想像するしかありませんが、相当なプレッシャーとの戦いであったと想像できます。また、交際相手の方との人間関係のもつれも示唆されております。

一方、ビル火災の犯人も、離婚や、親族との人間関係など、相当な精神的な問題を抱えていたということです。そのこともあって、現代ではこうした精神科クリニックが都市の至るところに開設されている現状が生まれています。心にストレスを抱えている人の受け皿が心療内科。ビジネスパースンのメンタルヘルスの受け皿は、大手企業なら企業内産業医、もしくはメンタルトレーナーでしょうか?しかしそれもない中小企業や自営業の方なら、最終受け皿はやはり心療内科。そして、その先が精神病院。恐ろしい現実だ。

そもそも、心療内科で症状が良くなり元気に復帰していく方はどれくらいおられるのだろうか?素晴らしい成果を納めておられるなら、それはそれで素晴らしいことだと思うのですが、、、。

心療内科

こういう聞こえの良い言葉が生まれるときは注意が必要ではないでしょうか?そもそも薬で鬱病は治るものなのですか?その薬でよくなった人の例を知りたいのですが、ありますか?

患者がその薬を求める?

この薬の名前は忘れたのですが、服用するとなかなか辞められないそうです。依存性があるといわれながら、そのことを伝えないで処方する程度の低い精神科医もいるようです。どの薬もそうですが、副作用は当然だが適切な指示に従えば安全だと必ず言われます。果たしてどうなのか?

医師免許所持者の言うこと、だれも絶大な信用をいたします。大阪のビル火災で犠牲になられたお医者様の評判は良いようで、面倒見の良さが報道されています。それは間違いないのでしょうが、それを強調するのはマスメディアの印象操作で常套手段。犯罪者の理不尽を浮きだたせ一般大衆の関心を引くことができる。精神に問題を抱えている人は凶悪犯罪を起こしかねない、こうした誤った固定観念を植え付けてしまいかねない。もちろん、この犯罪者を擁護する気持ちは一ミリもありませんが、、、メディアの報道は、事件の裏にある大切なことに踏み込んでいない。

起きた事件から我々が学ばなくてはならないのは、二度とこういう悲しい事件が起きないために、必要なことに気づくことだけです。

どんな薬を処方されていたのですか?

精神医を管轄するのは、どこですか?

厚生労働省は、治療カルテを調べられましたか?

この2つの事件の背後にあるのは、向精神薬の過度の服用ではないでしょうか?

事件の原因を、患者の精神疾患にすべて被せて終われば、事件解決は早いかもしれませんが、次の事件を防ぐことはできないと思うのですが、どうでしょう?

うわべだけみて、何が起こっているのか知らなければ、適切な対処のやりようがありません。

参考までに

努力主義を考える

かっての生徒(Gymnast)へのメール

返信に感謝。

さて、僕があなたにメールを送るようになったのは何故かといいますと、それは一言で言うと単純に心配だったからです。当時あなたと一緒に練習していた仲間は、みんなピュアで真剣、真面目、一生懸命でした。もちろん楽しんで体操を追求してくれていたことはよくわかっています。本当に懐かしくよい思い出になっております。

ですが、漠然と「なんか違う」という不安を持っていました。それは何かというと、「がんばる」という価値観に対する息苦しさです。ですから気付いておられたかどうかはわかりませんが、僕は世の大人とは根本的に考え方が違うのです。

エムトップを閉鎖したのは表向きはコロナを理由にしておりますが、実は日本中に蔓延している価値観「がんばれ至上主義」を克服したいからでした。これを「努力主義」という言い方をするかたがおられます。日本人の美徳とされているものです。

今日は週1回しかない「こども運動クラブ」の日なんですが、まさに「がんばり」なんかない、ただただ「楽しく運動する」だけのアクティビティです。傍目には「お遊び」にしか見えないような、楽しさにフォーカスしたものです。

いつも僕のそばにやってくる女の子(小5)がいますが、「学校嫌い、面白くない」といつも訴えてきます。「こども運動クラブ」は毎日来たいくらい楽しいのに、ということだと理解しています。この子は自分の気持ちに正直に生きていていますね。

楽しいのは、やっていることが勉強ではなく、運動だからでしょうか?

僕の考えでは、違うと思うのです。

どちらも同じこと。それを支える「価値観」に問題があるという見方です。

日本人の多くは、「がんばる」という価値観を優先順位一位におく「宗教」のようなものに支配されてしまっているということです。なぜこの価値観を宗教かといいますと、合理的な説明がだれもできないからです。

ためしにあなたは、「なぜがんばらなくてはいけないの?」という疑問を、先生や大人にしたことはありますか?そのとき大人はどんな答えを用意したでしょう?

「将来有利な職業につき幸せな人生を送るため」

こうなるのではないでしょうか?

これでわかった気持ちになって「がんばっている」のが、あなたやこどもたちなのです。なんか釈然としないけどまあ仕方がないかと思うし、がんばって結果がでたら喜びもあるしね。現に、あなたにも、体操競技で入賞したり、受験勉強を勝ち抜いた喜びはあったでしょう?

その喜びは長く続きましたか?

きっとすぐに色褪せますよね。

束の間、一瞬です(*^^*)

でもその喜びもつかの間、次の目標を見つけなくては、すぐに不安が襲ってきます。もし見つかれば、なんとかなります。でも今、目の前にあるのは、大学カリキュラムの一般教養なるもの。こんなものいまさら?となります。で、仕方なく課題をこなすしかなくなります。ほぼ、世の中はこの繰り返しです。

あなたの今感じている不安は、痛いほどよくわかります。これまでの何回かのメールで、気づかせてしまったのかもわかりません。学生時代の僕にもありましたし、こうしてメールを送るようになった今も同じ気持ちでなのです。

ひとつハッキリいいます。心配はいりません。答えはあります。僕はすでに見つけています。

ですが、その答えは簡単に人から教えてもらうことはできません。自分でつかんでいかなくてはならないのです。人生の旅客機は、今寄港地で一休みです。この答えを見つけるために、少し補給が必要なのです。美しい景色や、これと思う人との交流もよいでしょう。好きな動物との触れ合いや、ダンス等。ゆったり時間を楽しんで下さい。

当時中学生だったあなたももう19歳です。こんな長いメールを送れるようになりました。しかもしっかり読んでくれています。とても嬉しいです。楽しさにフォーカスしてください。

いつかお会いできる日がくると信じています。それまで、折に触れメールいたします。それでは、今日はこのぐらいにします。

ご自愛ください。

松田

前回のメールより

○○○○様

メール拝受しました。返信に感謝します。今朝は、また雨になりましたね。そちらはどうですか?大学の対面授業ははじまりましたか?僕のメールは長いので、苦労されましたか?僕には、伝えたいことは山ほどありますので、少しずつにしていきますが、こんなこと聞きたくないと思われたら、遠慮なくお知らせ下さいね。 

今日は一つだけ。

旅客機に乗って旅行はしたことはありますか?あると思うのですが、飛行機は離陸態勢に入るとき急激に機首を上げて膨大なエネルギーを放出して上昇していきますよね。グングン昇っていき、やがて水平飛行に移ります。機内アナウンスがあり、何事もなかったかのように機内サービスが運ばれてきます。シートベルトもはずせてリラックスした雰囲気になります。

大学生になったということは、そういう意味です。

旅客機の場合、目的地は決まっています。やがて目的地の空港へ向けて着陸態勢に入ります。ところが、人生という旅客機には目的地がないのです。目的地がないまま飛び上がってしまったのです。膨大なエネルギーを放出(受験勉強)して大空に飛び上がったけどやがて着陸しなければならない。どこへ?

これが今回お伝えしたいことです。

大学在学期間中に見つかると良いですね🎵

ただ、まだこの先があるのですが、それは次回にしておきます。

ご自愛下さい。

松田

平凡に生きることの意味

本日は、僕の中で記憶に残る子供さん(生徒)のことについて、お話をしておきます。 

子供の骨盤の傾斜をテーマにするつもりでしたが、後日に譲り、本日は「平凡に生きることの意味」について考えてみます。

競技スポーツの一コーチとしては、最も成功した子供について語るのが普通ではあるのですが、ご勘弁下さい。

コロナ禍で、クラブ閉鎖した表向きの理由とは別に、僕の中で、決定的な変化を迫るストーリーがありました。まだ誰にも話していません。

本日紹介するこのお子さんは、本格的に競技に入る前に体操を辞めていきました。

https://www.facebook.com/groups/605746099578995/permalink/2005337766286481/

当時、先行するチームと合流していける力がないことは明らかだったのですが、僕の意識のなかではそんなことはどうでも良いことだったのです。

僕のスタイルで選手育成アプローチを行いました。

ある意味で成功しある意味で失敗しました。

この頃からでしょうか、競技否定の気持ちがどことなく芽生えはじめていたようです。

競い合いはどこまでいっても終わりのない消耗戦のようだ

これが当時の僕の気持ち(疑問)でした。

競技の道は、確かにその時々で「感動」や「成長」はあります。だが、人はその目に見えない「価値」のために自分を追いやる必要はないのではないか?

うまく言えませんが、難しく言えば、これが今の僕の考えです。

「人は、お互い競い会わず、まったり生きていく道もある。」

「平凡」という言葉が、心の健康のためには必要な価値であることを、つくづく思い知らされた出来事が、僕の前にあらわれました。

この子は、チームに入る前に辞めて行きました。

本人の気持ちを代弁すると、別に心が折れたわけではない、ある出来事ががまんできなかっただけなのです。

競技チームメンバーからの「ちょっとした嫌がらせ」が原因でした。

たいしたことはない単なるからかいレベル」だが、彼女には小さなことではなかったのです。

もし僕のクラブがありがちな体操クラブではなく、今のようにありふれた「運動クラブ」だったら、と反省したのです。

先行するチームは、僕の部下に任せてあったので、安心して自分が理想とする指導ができる。そう確信して楽しみながら指導しました。

僕が指導するグループは、グループと言ってもわずか六人でしたが、いわゆる「競い合い」がないのです。 

それだけ「まったり」「平凡」である。

ところが、悪いことに、僕はクラブの代表である。

その代表が、別のグループを「まったり」指導している。

「頑張っている」と自負する子供たちにとっては、「まったり」はありえない文化なのだ。

そこに、大きな失敗の種が芽生えるのです。

まるで、今の学校教育システムと同じように。

子供だけが持っている「打てば響く」素直な感性

僕の手元に大切にしてきた一通のはがきがあります。

41年間僕を支えてくれた葉書です。少し自慢たらしくもあるのですがシェアします。



若い頃、小学校の教師になろうとしていたが、理想の教師像を追及していけば、現行の学校システムとは無理が生じることに気付いてしまいました。でも子供から離れられない。

なぜなら、若い頃の「魂の躓き」を救ってくれたのが子供だったからだ。

なので、体操を教える道を選びました。たまたま体操競技経験があるからですが、、、


魂の躓きとは、若い時にはよくあるやつ。生きる目的の消失です。オリンピックが目標なのにオリンピックがなくなってしまったときの消失感。それと同じです。挫折感がない人もいるのは知っていますが、、、


教育実習のとき、当時の校長先生の指示もあって、授業案を書かずにぶっつけ本番で国語の授業をやりました。そういう意味では、今と違って、腹の大きい、面白い校長先生だった。


教材は「片耳の大鹿」だった。あまりにも大きすぎるテーマです。読んで、はい終わり、ではすまない内容だった。

新出の漢字はさっさと済ませて、君たちはどう思う?と尋ねるのが僕のスタイルだった。書き方や読み方は重視しない。後で校長先生から軽くお叱りを受けたが、、、


ある生徒が、手を挙げて発言してくれた。

僕は子供の発言に優劣をつける立場にはないので勇気を誉め称えた。


クラス担任の先生から聞いた話なのだが、この子はクラス内でまったくのお客さんだったらしい。要するに、手を挙げたことがないのだそうだ。その時の担任の先生はそのことに驚かれた。そりゃ、そうだろう。椋鳩十先生の名作を読んで感動しない子供はいない。僕はそう信じていた。


僕の役目は、この作品の素晴らしさを伝えるだけだ。これをきっかけに、しっかり読書経験を積んで欲しいのだ。そして感動の生まれる根拠について子供と共有したいだけだった。


ある意味、教師としては失格だ。なぜなら、読み書きをしっかり教えるのが教師の仕事だからだ。体操のコーチがトレーニングの基礎を教えるのとまったく同じ。そういうことを校長先生から諭された。僕は正式な教員は無理だなと深く悟った。


以来、体操のコーチになっても、同じ道を歩んでいる
体操のコーチとしても二流レベルの力量しかない。
ただ、子供の心をつかむのは得意かもしれない。


実習が終わる頃、千羽鶴をクラスの生徒たちが秘かに織り込んで、お別れ会の時、「必ず先生になって欲しい」と書かれたメッセージとともに、他の実習生、教員の皆様の前で渡された。


まさか、僕のところに、そんなに人気が集まるとは、他の教員の先生方も実習生も想像できなかったらしい。


僕は、教員免許は無駄にしたが、資格以上に大切なものに気付いている。
それは、子供への「恩返し」の気持ちかもしれない。


僕を救ってくれた子供のそのストレートな愛に、打てば響く素直な感性に救われたのだ。


だから、子供の感性を大人の欺瞞で汚さないようにして欲しい。


瑞々しい感性を大切に育てて欲しい。

スポーツ化は高校生からでよい

小学生までは基本の運動をしっかりマスターして、中学生の三年間は、すこし競技にシフトしてもよいけれど、それも、最小限にとどめておくべきだと思います。

お子さんが小さいうちから競技の道を選ぶ人もおられます。それを否定するつもりはありません。ですが「こども運動クラブ」にご関心をいただく方には、そんな方はおられないと思います。

小さいお子様をお持ちのお母様には、「スポーツではなく器械運動を選ぶべきだ」というメッセージを「こども運動クラブ」としては、あえて送りたいと思います。

スポーツと運動とは違うのか?

スポーツというのは、本来「遊び」の要素があったものが、人間の持つ競い合う気持ちをうまく利用して、近代になって支配勢力がうまく利用して発展してきたものです。

何を言わんとしているのか、わかりにくいかもしれませんね?でも、もしかすると競技スポーツをやりすぎて疲弊してしまったお子さんをお持ちのお母様には、ピンっとくるメッセージかもしれません。

僕が、強調して伝えておきたいのは、器械運動は、身体も心も健康でハツラツとした人生を送ることが第一の目的であって、技術を競いあうスポーツは、あくまでも第二の派生文化だということです。

スポーツは人間の生活を豊かにするためにあり、生活を歪めるためにはありません。

子どもに本当に必要なものは、身体をコントロールする能力と規則正しい食事と生活の改善であり、ことさら、他人に勝つ能力ではないということです。

ここを間違わないようにして下さい。

大切なことなので強調しますが、スポーツが価値があるのは、勝ち負けを学ぶことから人生の深さを知ることができたときだけです。とくに、負けることから、深く学ぶことができるからです。

そういう意味では、適切な年齢に達しておかなくてはいけない!と考えています。

それは、昔で言うなら、「中学生に入る頃」ということです。このあたりは、個人差がありますので、一概には言えませんが、目安として考えて下さい。

ですから、12歳以下の子どもさんは、まずは、正しい器械運動から学んでほしいのです。お子様が競技(スポーツ)に興味を持つか持たないかは、あなたが決めるのではなく、その後、自然に決まるものです。

ですから、12歳以下の子どもさんは、まずは、正しい器械運動から学んでほしいのです。お子様が競技(スポーツ)に興味を持つか持たないかは、あなた(保護者)が決めるのではなく、その後、自然に決まるものです。

以前のブログ内容を書き換えました

子供に器械運動を教えていて気付いたこと

現代の子どもたちは、かなり運動感覚が欠如しているのではないか?ということです。

これの主な原因は運動不足です。いくら強調しても強調しすぎることはありません。

それとは別の視点から気付いたことを言えば、

昭和時代と平成の違いは座り方の激変があると思います。

それは、、、、、正座をしなくなったこと。

学校体育のシーンでは、体育すわり(おやますわり、三角すわりとも言う)が主流ですが、この座り方は、問題が多いと日々感じています。

現代のご家庭では、西洋様式のリビング・ダイニングが普及してしまったので、通常、椅子の上での生活になると思います。正座は、駆逐されたのではないでしょうか?

運動感覚の欠如と正座の消滅。

なにか関連があるのでしょうか?

大いにあると見ています。

僕の子供時代は、昭和30年代です。「三丁目の写真館」で描かれている暮らしです。ちゃぶ台やみかん箱の上で勉強というスタイルが庶民の主流でした。

とにかく椅子や机がなかった。

ご飯を食べたり、勉強しようとしたら、畳の上で寝転んでするか、適当な台を見つけて、正座しながらするか、です。

この正座、やってみるとよくわかるのですが、日本人が大切にしてきた文化の一つの凄さが、しみじみわかります。

足が痛いなんてすぐに根をあげないで、ぜひトライしてみてくださいね。

まず呼吸。深い呼吸が可能。そしてリラックス効果。背骨骨盤が立つ。

僕が注目するのはココ。骨盤が立つ!!!

現代の子供の多くは、骨盤が外側に倒れている。

これがそうとう問題である。

次回の投稿で書きます。