本日は、僕の中で記憶に残る子供さん(生徒)のことについて、お話をしておきます。
子供の骨盤の傾斜をテーマにするつもりでしたが、後日に譲り、本日は「平凡に生きることの意味」について考えてみます。
競技スポーツの一コーチとしては、最も成功した子供について語るのが普通ではあるのですが、ご勘弁下さい。
コロナ禍で、クラブ閉鎖した表向きの理由とは別に、僕の中で、決定的な変化を迫るストーリーがありました。まだ誰にも話していません。
本日紹介するこのお子さんは、本格的に競技に入る前に体操を辞めていきました。
https://www.facebook.com/groups/605746099578995/permalink/2005337766286481/
当時、先行するチームと合流していける力がないことは明らかだったのですが、僕の意識のなかではそんなことはどうでも良いことだったのです。
僕のスタイルで選手育成アプローチを行いました。
ある意味で成功しある意味で失敗しました。
この頃からでしょうか、競技否定の気持ちがどことなく芽生えはじめていたようです。
競い合いはどこまでいっても終わりのない消耗戦のようだ。
これが当時の僕の気持ち(疑問)でした。
競技の道は、確かにその時々で「感動」や「成長」はあります。だが、人はその目に見えない「価値」のために自分を追いやる必要はないのではないか?
うまく言えませんが、難しく言えば、これが今の僕の考えです。
「人は、お互い競い会わず、まったり生きていく道もある。」
「平凡」という言葉が、心の健康のためには必要な価値であることを、つくづく思い知らされた出来事が、僕の前にあらわれました。
この子は、チームに入る前に辞めて行きました。
本人の気持ちを代弁すると、別に心が折れたわけではない、ある出来事ががまんできなかっただけなのです。
競技チームメンバーからの「ちょっとした嫌がらせ」が原因でした。
「たいしたことはない単なるからかいレベル」だが、彼女には小さなことではなかったのです。
もし僕のクラブがありがちな体操クラブではなく、今のようにありふれた「運動クラブ」だったら、と反省したのです。
先行するチームは、僕の部下に任せてあったので、安心して自分が理想とする指導ができる。そう確信して楽しみながら指導しました。
僕が指導するグループは、グループと言ってもわずか六人でしたが、いわゆる「競い合い」がないのです。
それだけ「まったり」「平凡」である。
ところが、悪いことに、僕はクラブの代表である。
その代表が、別のグループを「まったり」指導している。
「頑張っている」と自負する子供たちにとっては、「まったり」はありえない文化なのだ。
そこに、大きな失敗の種が芽生えるのです。
まるで、今の学校教育システムと同じように。